
戦争を知らない子供たち
私のパートナーは終戦後、義父が捕虜として抑留された後
帰国してから産まれた子供、 「団塊の世代」と言われた世代です。
5歳年下の私ぐらいまでがその世代で私の通った大阪市内の小学校は15クラスありまた。 しかもひとクラスは50人
教室は満杯で、担任の先生は1人で担当されていたっけ
そんな私たちは「戦争を知らない子供達」と呼ばれていました
学徒動員、防空壕、砲兵工廠、焼夷弾、高射砲陣地, 子供の頃そんな言葉を耳にする
事があってもそれがどういう意味なのか、どういう字を書くのか、
大人になるまでサッパリ分からなかった
時々、母が田舎に疎開していた事や父が学徒動員で勉強どころではなかった事などを聞く
ことはあったけどその頃の私は真剣に聞こうとはしなかった
義父は職業軍人でそれなりの位で戦争に参加したので無事に帰国したのは奇跡的らしい。
日本に残していた2人の女の子が義父の生き延びる力を出させたのだろうか
義父は戦争体験は殆ど語らず戦後の厳しい時代を黙々と仕事をして
7人の子供を育て上げた後は,各地に散らばっている元部下の人達やその遺族の方を
訪ねていました。
今思えばあの時代を生きた親世代の人達の生の声をもっと聞いておけば良かった
特に義父は軽々に語ることは出来なかっただろうと想像しますが
それでも真摯に耳を傾ければ良かったと悔いが残ります (後編へ続く)
戦後、敗戦国の日本がひたすら「モーレツ」にひた走り
一時、アメリカに次ぐ経済大国になった日本
あのニューヨークの中心部のビルを買い占めるぐらいの勢いだった日本
ただし今思うのは右肩上がりの経済成長しか知らなかった戦後の私たちは
“戦争を知らない子供達“のままで終わって良いのだろうかという疑問?
私達は何も知らなさ過ぎたのではと何故あの戦争が起こったか?
被害者と加害者が単純に二分されるのか?
日本を復興してきたのはどんな人達なのか?
隣国の人達の事情はどんなものだったのか?
私は中学の日本史でちゃんと知りたいと思っていたのに
3年の3学期の時間切れですっ飛ばされ、高校の時には今度こそ
一番身近な歴史を知りたいと意気込んで臨みました
それなのに、その時も同じようにすっ飛ばされて
これは意図的だったんだと気づきました
卑弥呼の事や大和朝廷の時代を学ぶのも私は好きでしたが
本当に学ばなくてはいけない歴史があり
それは余程自分が自覚していないと
流されてしまうということにも気づきました
私が知り得ることは僅かかも知れません。
それでも私が生きた確かな歴史の行き先には
しっかりと目を向け続けていきますこの先も
本当の意味で世界中が “戦後を知らない子供達“で溢れる事を
実現する為に